こんにちは。のりゆきです。
本日ご紹介するのはこちら、「勇気の二部作」の完結編、すなわち『嫌われる勇気』の続編である『幸せになる勇気』
面倒なので、以下『嫌われる勇気』を青、『幸せになる勇気』を赤とします。
この二冊の関係性は、筆者曰く青は地図で赤はコンパスだそうです。補足すると、青はアドラー心理学とは何ぞや、といった内容でしたが、赤はより実践的な部分に触れられています。
赤も青同様、悩める青年とアドラー哲人の会話で話が進んでいくのですが、青から赤に至るまでの流れをざっくり説明すると、
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青年は図書館司書をやめて教師に
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褒めも叱りもしなかったら学級崩壊寸前になっちゃったんだけど!?
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やっぱアドラーくそだな、とても実用に耐えうる考え方ではない
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おいおい哲人さんよぉ!!どう落とし前つけてくれんだ?ぇええぇぇ!?
こんな感じです。
新しい何かが書いてあるわけではなく、青の理論を現実問題に適用したらどうなるか、的な話になるので、青を読んで多少なりとも興味が湧いた・共感したという方には是非読んでいただきたいと思います。
逆に、青を読んだけどちっとも興味が湧かなかったという方が赤を読む意味はあまりない個人的には思います。
さて、ここからは気になった部分を引用しながら感想を書いていこうと思います。
子供や生徒の問題行動には五段階ある。称賛の要求、注目喚起、権力争いときて、第四段階は「復讐」。復讐とは、
わたしを愛してくれないことは、もうわかった。だったらいっそ、憎んでくれ。憎悪という感情のなかで、わたしに注目してくれ。
今現在私は両親と絶縁していますが、この状態はおそらく復讐に当たるのでしょう。愛されたいという気持ちの裏返しだというのは非常に不愉快ですが、自信をもって否定できない自分もいます。
ここまでは正直どうでもいいんですけど、次の第五段階目というのが「無能の証明」(おれ何やってもダメだよアピール)らしいんですよ。ここに行ってしまうと自分の人生に実害が出てしまうので、気を付けようと思います。
そして親の話になると思うんですよ。親を受け入れられる時は来るのだろうか、受け入れなかったとして親が死んだとき俺は後悔するのだろうか、と。
まあ最近はアニメで両親との和解のシーンとか見てても自分の両親を思い出すことなんてほとんどないですけどね。忘れようとする行為自体が対象を意識させる理論を体得しているので。
暴力とは、どこまでもコストの低いコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません。 (p.112)
つい最近読んだ
この本を思い出しました。少しネタバレしますと、
主人公の蔵原走くんは高校時代所属していた陸上部で暴力沙汰を起こしているのですが、そんな過去を振り返ってのこのセリフ。
俺は後悔しています。 あのとき、ぶちのめす以外の方法を、少しも思い浮かべられなかった自分を。(p.387)
だからなんだって話ではなく、ただ思い出しただけです。
蛇足ですが、私は幼い頃から他人に暴力を振るったことなど一度もありません。それは人間としてあまりに未熟な行為だと思っているとかいう高尚な理由ではなく、単に腕っぷしが弱すぎるからです。こっちから手を出したら確実に返り討ちだし、仕掛けられても逃げる一択です。もし悟空並の戦闘力を手に入れたら何しでかすかわかったもんじゃありません。だから、その気になれば力でねじ伏せられるのにそれをしない人はすごいなーと思います。
競争のあるところ、駆け引きが生まれ、不正が生まれます。(p138)
これにはいささか賛同しかねますね。
少年マンガのような爽やかな競争だってあると思います。というかあると信じたい。
スポーツの世界でも暗いニュースはあるので、現実はシビアなのでしょうが。
私自身には、そもそも他者と競うという発想がありません。
私とて受験戦争を戦ってきた身ではありますが、自分よりできるやつを見れば、俺より上がこれだけいるなら人類は大丈夫だ、と安心していました。
しかし、過去の自分や理想の自分とは戦っている気がします。一番悔しかった思い出は高校時代、高校入試問題を解かされたとき満点じゃなかったことです。
悔しさの他に、やっぱりアイツはただものじゃねぇと思われたかった節もありますが。
褒めてはいけない。叱ってはいけない。
アドラー心理学の基本スタンスなんですが、ここは未だに腑に落ちていません。
私は4年間塾講師をやっていたのですが、叱り方がわからないから叱る代わりに諭してました。もちろん褒めもしました。その経験から、褒めるも叱るも良いことな気がします。教育におけるアドラー心理学の考え方については赤で丁寧に説明されていたのですが、ここはやはり実践してみないとなんとも言えません。
一方、自分のことに置き換えてみると非常に納得できます。私は、褒められても別に嬉しくありません。それどころか、裏を読もうとして気疲れしてしまいます。
もっと言ってしまうと、僕を褒めてくる人にろくな奴はいないと思っている節があります。というか、真にできる人というのは、相手に褒められていると感じさせないんだと思います。
ちなみに、叱られるのは好きというか、叱ってくれる人のことは信頼してしまいがちな傾向があります。
少し話はそれますが、信頼できる人でいうと、全てを見透かされている、と感じるような相手はすごく信頼できるし、そんな人と話しているのはとても心地良いです。自分に自信があるというナルシシズムだけでなく、この人なら自分を理解してくれるんじゃないかという商人欲求の名残があるんでしょうね。
他者からの承認を求めるのではなく、自らの意思で、自らを承認するしかないでしょう。(p152)
「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。(p153)
これは誰かに言われずとも私の根底にある意識ですね。私は幼い頃から良くも悪くも明らかに他人と違うことを実感して生きてきたのである意味必然でしょう。
誰にもわかってもらえないから、自分を守るためには自分で自分を認めるしかなかった。いつしかそれが当たり前になってた。って感じですかね。
今でも気を抜くとついつい自分語りしてしまうので、本当の意味で割り切れてはいないんでしょうけど。
教育とは「仕事」ではなく「交友」
バイトの先輩が言っていた「講師と生徒である前に、人と人ですからね〜」という言葉を思い出しました。バイトをやめる時に「海苔沢先生と田中先生ではなく、海苔沢雪男と田中太郎としてこれからもよろしく」と言ってもらえたのは本当に嬉しかったし、その言葉だけですごく自信になりました。
ちいさな口論から国家間の戦争まで、あらゆる争いは、「わたしの正義」のぶつかり合いによって発生します。
言われれば当たり前のことですが、正義と悪がぶつかっているような錯覚を起こしがちですよね。
ちなみにこれは、今年のドラえもんとクレヨンしんちゃんの映画のメインテーマでした(と個人的には思ってます)。というかアニメなんてほとんどこれですよね。オビト然り、イグドラシル然り。
悪い事ことしようと思って悪い事してる敵なんて稀です。 ロケット団とラブマシーンくらいのもんでしょう。あ、バイキンマンもそうか。
愛と勇気は、密接なつながりをもっています。
もはやアンパンマンのおともだちは一人しかいないのかもしれません。
あなたはいま、人生というダンスホールの壁際に立って、ただ踊る人たちを傍観している。「こんな自分と踊ってくれる人などいるはずがない」と決めつけ、心のどこかで「運命の人」が手を差し伸べてくれることを待ちわびている。これ以上はみじめな思いをしないように、自分を嫌いにならないように、歯を食いしばって精一杯に自分を守っている。
ギクッ
われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。
他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。
そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。
二つ目の自立には「親からの解放」も含まれるんだそうです。
これはもう仕方ありませんね、一生独り身でいいなんて言っていられなくなりました。
でも怖い。正直めっちゃ怖い。愛する勇気を出すにはまだしばらくかかりそうです。
ちなみに、三つ目の共同体感覚は、いわゆる隣人愛でもオッケーです。なぜかと言われても困りますね、私がそうだから。ただそれだけです。
さて、以上で勇気の二部作も完結です。
にしてもあれですね、アドラー心理学はまさに私自身の取扱説明書ですね。
未だかつて私のような人間に出会ったことはなかったので、こんなわかりやすくパッケージングされたものがあるとは夢にも思いませんでした。ありがとうアドラー。
やはり僕は超ウルトラグレートデリシャス大車輪ラッキーボーイですね。