そう簡単に人生変わらんよ

モラトリアムを拗らせた中二病おじさん。

嫌われる勇気 第四夜

本章では「共同体感覚」という概念が登場します。が、正直あまりピンと来ていないので、それについては言及しません。その代わり、私なりに気になった部分について述べていきます。

まず、アドラー心理学では「褒めてもいけないし叱ってもいけない」んだそうです。そもそも褒める叱るというのは「評価する」という事であり、それは縦の関係(上下関係)を前提としています。

しかし、そもそも縦は良くない。じゃあどうするのか?横の関係を築こうという事らしいです。親、上司、先生、一般的には上下関係で語られる人たちでさえ、意識の上では対等な横の関係を築こう、と言っています。

ややこしいので縦横の話は切り上げさせていただいて、私が気になったのは「褒めても叱ってもいけない」という部分です。まずその理由ですが、簡単に言えば「どちらも相手にとって意味がない」からだそうです。ここは正直僕も納得いっていません。褒められると学習効果が上がるというのは脳科学的事実らしいので。

そこの是非はともかく、「褒めても叱っても意味がない」というのは私にとてもよく当てはまっている気がします。

私は昔から、褒められても素直に受け入れられませんでした。今のは俺に自信をつけさせようとして言った事じゃないのか?と勘ぐって、そこにばかり意識が行って褒められたことなんていつの間にか忘れていました。

では叱られた時はどうかと言うと、まず相手に感謝し尊敬します。「叱る」というのは印象を悪くしかねない行為であり(怒るのは別ですよ)、いわば自分を犠牲にしてでも相手の間違いを正そうとする行為です。これには頭が上がりません。本当にそんなリスクを犯してくれた相手には感謝と尊敬の念を禁じ得ないのですが、残念ながらそこで終わりです。自分の行動を省みる所まで行きません。

 

あともう一つ。割と前半から出てきていたのですが、「全ての悩みは対人関係によって生じる」というのがアドラー心理学の立場だそうです。これには私も激しく同意します。

私は半身麻痺が残っているとは言え、今は一人で生活できています。しかし、事故直後は本当に一人では何もできませんでした。とりあえずナースコールを手元に置いて、テレビを付けるのもスマホを触るのもトイレに行くのも食事をするのも全て看護師さんにやってもらっていました。

看護師さんにしてみればたまったもんじゃないでしょうが(まあそれで金もらってるんだから許してよ)、全てやってもらえていたので私自身の感覚としては特に不便は感じていませんでした。

それがだんだんと回復してくるとどうでしょう?もちろん自分でできる事は増えてきます。でもそれ故に、看護師さんを気安く呼べなくなってしまいました。今なんて呼ぶ看護師さんがいません。

加えて、社会の中で生きる上での不便さというものがあります。入院中は病院という聖域の中にいましたから、できないであろうことはやらなくて済みます。周りがやってくれますから。

しかし退院してしまったらそうはいきません。周りと同じように、自分でやるべき事は自分でやらなければなりません。周りの目も気にならないと言えば嘘になります。

そんなわけで、私は入院初期が今までの人生のピークでした。ただただ幸福という二文字で表される最高の生活を送っていました。

え?入院中だって看護師さんとか家族との対人関係があったじゃん?と思われた方がいるかもしれません。実際、頻繁に病室を訪れる両親によって私のエネルギーが奪われていたのは事実です。思い出しただけで心が黒く染まっていきます。

しかし、看護師さんとはいわばお金の関係です。病院にお金を払っているからお世話をしてくれているにすぎません。もちろん感謝していましたし、向こうも心配してくれていたと思います。でも僕にとってはお金が絡んだ関係ってすごい気楽なんです。

結局何が言いたいかというと、体がろくに動かなかった入院中よりも、だいぶ回復して普通の生活を送っている今の方が不便だ、ということです。なんか論点ズレてきた気もしますが、これぞまさしく「全ての悩みは対人関係から生じる」事を表しているのではないでしょうか。