何度も1人の夜をあきれるほど重ね、
今頃気が付けばまだ恋したことがない
テニプリキャラソン界でもトップスリーに入る神曲、恋の激ダサ絶頂(えくすたしー)の一節です。新型コロナウィルスの影響による社会の混乱により、寂しい夜を送っている方々に送ります。
私は、いわゆる回避型の特性を持ちながらも、人と人との繋がり、家族の絆といったものを、好意的に捉えています。半ば崇拝していると言ってもいいかもしれません。
私も、いつかそちら側(共感型)に行けたらいいなぁという思いも、心のどこかにありました。そして、それはヒトの一個体として正しいことだとも思っていましたし、そうなれるとも信じていました。
しかし本当にそうだろうか。自分は共感型になれるのだろうか。ついつい、そんな他愛もないことを考えてしまうのです。
今私の中にある共感型への憧れは、主にアニメやマンガによって形成されたものです。
CLANNADで家族の絆に泣き、テニプリで友情に憧れ、キミスイで命の尊さを知り、とにかく全てフィクションの出来事です。私だって、それなりに人に囲まれて過ごしてきたはずなのに、そこには彼らのように心の触れ合いが生まれることはありませんでした。
その理由をずっと、自分が心を閉ざしてきたからだと思っていました。自分が心を開きさえすれば、勝手に心は触れ合うものだと信じてきました。
でも、最近それも怪しい気がしてるんです。
幼少期に人の温かさに触れてきた人間は、人間味が育まれると考えるのが自然です。一方で、温かさに触れられなかった、あるいは冷たさに触れた人間が、無機質になるのはわかる気がします。
しかし私は、人の温かさの中で生きてきてなお、無機質に育った人間なのです。そのくせ、絆に対する憧れを持っています。
なんかそういうロボットいましたよね。ボクハ、、ニンゲンニ、ナリタイ、、、みたいなやつ笑
とにかく、今私が抱いている憧れというのは、「あれはマンガだからいいんだよ。実際あれやったら大変だよ〜」という類のものではないかという気がしてきたのです。
それを確かめるには一度絆を結んでみるしかないのですが、子供を作ってみて、あ、なんかこれ違うわ、や〜めた、なんて許されません。困りましたね、信じて飛び込むか、疑ってステイか。
しかしこの「信じて」という部分に疑問が残ります。
未経験のことを、やれば楽しいと信じてやってみる、というニュアンスなわけですが、俺は本当に未経験なのか?という疑念が湧いたわけです。今日までの人生が、それを信じて飛び込んだけど失敗だった、という経験の繰り返しだったんじゃないのか?と。既に同じ轍を踏みまくってきたんじゃないのか?と。
マジで人生いとあはれ